沖縄県にある琉球王国のお城「首里城」は、2019年(令和元年)に火災にあい、メインの建物の「正殿」などが消失してしまいました。沖縄にはよく旅行にいっていたので、そのうち首里城にいくつもりでいたのですが、なんだかんだ余裕がなく、行かずじまいになっていました。このニュースをテレビでみたとき、とてもショックでした。(といっても地元の方ほどでもありませんが)
今回、夫の友人が復元工事の関係者であったことから、案内してもらえることになりました。といっても工事中の職人さんの作業場には入れませんので、一般の見学者と同じコースを歩き、いろいろ説明してもらいました。今回はその見学ツアーの中から特に私が印象に残ったことを記事にしました。
ちょうど、台風14号が沖縄本島に接近しつつあるタイミングでした。雨が時折はげしく降る中、見学させてもらいました。海外の観光客の方も、悪天候なのにけっこういらっしゃってました。

首里城は国営公園
見学にいくまで知りませんでしたが、首里城のメイン部分は「国営沖縄記念公園首里城地区」という国営公園で、関東でいえば、国営昭和記念公園や、ブルーのネモフィラで有名な国営ひたち海浜公園と同じ国が管理しているところです。
1989年(平成元年)に首里城の正殿の復元工事がはじまってから、瑞泉門などの門や、二階御殿、世誇殿などの建物を次々に復元し、見学できるようにオープンさせていた矢先に火災に遭遇したようです(令和6年度事業概要 首里城公園パンフレット2024年6月より)。なんとまあ、残念なことです。
主な城郭の外側のエリアが県営公園となっているようです。
令和の大火災
令和元年(2019年)の火災では、正殿を含む9つの施設に被害があったそうで、維持管理を行っていた事務所も全焼し、パソコンや資料など全焼したそうです。これにはびっくりしました。首都圏のニュースでは語られてなかったので知らなかったです。
城壁と門に阻まれた消火活動
火災が発生してから、消防士のみなさんがかけつけるのですが、高い城壁に阻まれ消火作業は困難を極めたそうです。未明に発生したため、各門が施錠されており、消防士がこれをチェンソーみたいな特殊な工具で破壊してから、中にはいったそうです。
平常時なら独特の曲線を描く、美しい城壁なんですけど、非常時には障害になっていたんですね。はじめてこの城壁をみた時には感動しました。角の曲線が本土のお城と全然ちがいます。

消化用の水がなかった
そして、消火のための水が城郭内では足りなかったそうです。消防のポンプ車を近くにもっていきたいが、城郭の中にははいれず、門の外からホースをつないで、つないで、つないで、、。数百メートルの長さに延長して、やっとのことで、消火していたそうです。
ここまでは見学の時におしえてもらった話です。
当時の消火活動の困難さをまとめたドキュメンタリー映像が、沖縄テレビのYOUTUBEにありました↓
この動画をみると、ほんとうに大変な消火活動だったことがわかります。殉職する人が出なくてよかった。
途中から、ある消防士が備えつけてあった放水銃を使用して消火をはじめるのですが、その放水銃が踊りの仮設ステージの下にあったようです。まずそのステージを破壊してから、放水銃を取り出し、放水をします(本来なら放水銃の上にはなにも置いてはいけないはず)。
ここで問題だったのが、首里城の貯水槽は、放水銃の放水20分間のみの設計だったそうです。火災当時、他の消火設備が一斉に放水したため、わずか10分間しか放水できず、あっという間に水がなくなったと、動画にありました。悲劇。
そうして、見学のときに説明してもらったとおり、ホースを多数連結して消火を続けていくのです。動画では、その連結作業をするのも、急斜面で狭い城内を駆けずり回っておこなっており、それも消防士の体力を奪っていったと述べていました。
焼け残った大龍柱
出火原因は不明となっています。警察や消防による現場検証が長く続き、担当者たちが現場にはいったのは年明けだったそうです。そこで事務所の関係者たちがみたのは、焼け跡に忽然と立つ、大龍柱だったそう。ちょうどそのような状態の大龍柱の画像が首里城公園センターホームページに載っていました。

大龍柱(だいりゅうちゅう)とは、首里城の正殿(メインの建物)の前に向かい合わせに立っている、龍の形をした柱です。あの大火災の中、唯一(?)形を残していたものだったのです。
工事のためにその場から取り外し、横に倒して保存していたところ、ヒビがドンドンはいってきたそう。かなりの高温(1000℃超え?)に長時間さらされた上、横に倒したことで重力から解放されてヒビわれてきたのだろう、とのことでした。ガンバってその場に立ち続けていて、力つきたのかも。その大龍柱は、補修展示室に保管されており、その建物の外から窓をとおして見学することができます。
この話が特に印象に残っていて、写真を撮ったつもりが、とれていませんでした。首里城公園センターホームページから引用させて頂きます。

そして、正殿復元工事にあたってこの大龍柱の向きがちょっとした問題になっています。火災のあと、フランス海軍士官が1877年に撮影した最古の写真が発見されました↓
そこでは、大龍柱の龍の顔が向かい合わせになっておらず、正面を向いていたのです。平成の復元工事の時には、琉球王家の一族、尚家(しょうけ)が代々保存してきた資料を基に復元していました。
現段階では、平成復元どおり向かい合わせにする方向のようですが、沖縄の地元では正面をむけた形に復元するよう要望する動きがあるようです。さて、どうなるでしょうか。。

建築木材の調達もたいへん
平成の復元の際、正殿を構成する木材は台湾ヒノキだったそうです。でも、現在は輸入できないので日本中から集めたそうです。しかも樹齢150年~170年の大径木が必要なため、数も限られていて調達はたいへんだったそうです。なるべく地元沖縄産のものでそろえたかったそうですが、そのような大木の相当数はなかったらしい。それでもオキナワウラジロガシという地元の大木をごく一部使用して復元がすすめられています。イヌマキという木は、長崎県から調達したそうです。メインのヒノキは、奈良県産が多いものの、静岡県、愛知県、岡山県などなど日本中から調達されたそうです。地元や国内海外からの寄付金で調達したそうです。


職人を育て後世に技術を継承
現代の沖縄の建物は、台風に耐えるためにほとんどコンクリート製です。木造建築の大工さんがほとんどいないそう。なので、正殿の工事では、県外から職人をよびよせているそうです。宮大工の総棟梁は福井県の方だそうです。次世代へ技術を継承するため、地元の職人や学生にもはいってもらっているそうです。
そのほか、いろいろな技術が必要で、過去の資料や発掘された新たな事実なども検討しながら、復元されています。ほんとうにたいへんな事業ですね。

防火対策にも力をいれる
大火災の痕跡がひっそりと残っていました。夜間正殿などの建物を照らしていた、照明灯です。光がでる場所が熱で溶けて焼け焦げています。

今回の首里城正殿の工事は、この大火災による消失からの復元のため、防火対策には、なみなみならぬ力がはいっているようです。この工事中でも防火訓練は頻繁に実施されているとのことでした。
また、資料によると警備員さんもなにかあったとき、すぐに判断して自力で消火にあたれるような人員を配置するようにしているそうです。火災当時は、異常を感知した警備員さんが現場を確認しにいき、消火器をとりにいって戻ってきてから初期消火がはじまったとのことで、そこで、時間がかかったそうです。小さな火の時に消火器で消すことが大事ですね。
余談ですが、私、昔、職場の防火訓練の時に、消防士さんの指導の元、実際の火を前に消火器を使ったことがあります。現実の火を前にすると、熱くてこわくてちょっと距離をおいて消火器をかけてしまうのですが、それだと効果がほとんどないそうで、できるだけ火に近づいて消火器を噴射しないと消せません。「もっと火にちかづいて!」と、消防士さんに指導された記憶があります。今では、訓練では実際の火は使わず、火の映像を壁に映してそこにむけて消火器を噴射するってことしかしませんけどね。
首里城を救った男とその書籍
鎌倉芳太郎
首里城正殿の復元にあたり、重要な資料として「鎌倉芳太郎」という人が撮影した写真や、収集した資料がかなり重要らしいです。見学の時に、なんどもその名前が出てきたので、鎌倉芳太郎ってだれ?って感じでした。
そこで、ネットで調べ、帰宅してから本を買って読んでしまいました。「首里城への坂道ー鎌倉芳太郎と近代沖縄の群像ー」という書籍です。なかなか面白かったです。
この本は、「首里城を三度すくった男、鎌倉芳太郎」を中心に関わりのある人間についてかいてあります。首里城について興味をもったあなた! ぜひ、ご一読あれ!
先祖が首里城周辺に住んでいた可能性
ついでに、ちょっとだけわかったことがあります。夫の父方の祖父は沖縄生まれで、親戚が大勢沖縄戦でなくなっています。東京にいて難を逃れた親戚のおじさんは、かつて「うちは士族だったんだ」といっていました。この本の中に、上級士族は首里城周辺の中心地区に屋敷があり、下級士族はその周辺に住んでいた。明治時代に琉球王国が崩壊すると首里に暮らしていた士族は、仕事を求め、那覇や離島などに移っていったと。
そう、夫の祖父の生家は、昔の那覇市だったので、もしかして、さらに過去をさかのぼれば先祖は首里城のまわりにすんでいたかも、、、です。上級士族はほんの一握りだったらしいので、下級士族だとして、首里城地区の端ぐらいには住んでいたかもしれませんね。なんだか首里城との縁を感じてしまいました。いやあ、この本、読んでよかったです。
看板を外した守礼門
ちょうど台風14号が接近していたため、守礼門はこんな感じになっていました↓非常事態用バージョンです。「扁額(へんがく)」という看板が強風で壊れないようにあらかじめはずしてあるそうです。さすが、準備周到ですね。

扁額がなくても立派で赤く美しい門でした。沖縄戦で破壊されたあと、正殿が復元されるより前に復元されたのがこの門だったそうです。
なお、通常の守礼門はこんな感じ↓

この扁額に書かれた文字は
「守禮之邦(しゅれいのくに)」で、「琉球は礼節を重んずる邦である」という意味
首里城公園パンフレットより引用
この門の中央の広い入り口は、位が高い人が通るところで、従者は脇の入り口を通ったそうです。岸田前首相がいらしたときに、その説明を担当者がしたところ、彼は脇の入り口を通って入ったそうです。謙虚な方ですね~。プチ情報でした(笑)
仮設の建物のペインティング
西側の正殿の絵
正殿は、仮設の建物の中で着々と工事が進んでいました。巨大な仮設の建物は、「木材倉庫・加工場、原寸場」と「素屋根(すやね)」の2つがドッキングしていました。先に木材倉庫・加工場、原寸場という仮設の建物が建てられ、木材倉庫の西側の広い外壁に、赤い正殿の絵が描かれていました。
なんでも当初は絵をかく予定はなかったそうで、途中からとある偉い人の提案でそうなったとのこと。こちらの正殿は青空と白い雲を背景に、赤い正殿と正面階段が左右に広がっている様子が描かれています。斜め横からみると建物のひさしがでていて、絵を描くのも苦労したそうです。最初から絵を描くなら、庇(ひさし)はない方がよかったと、関係者たちは言っていたそうです。
でも、この絵があるのとないのとでは、雲泥の差ですね。絵があってよかったです。お金かかってますけど。

東側の正殿の絵
そして次に素屋根とよばれる仮設の建物が増築され、中で正殿がくみたてられています。
この建物の東側にも正殿の絵が描かれています。こちらの絵は、西側より後から描かれたそうです。岸田前首相の提案だったとかなかったとか。内部の国王の玉座(御差床(うさすか))も描かれていて、実寸大とのこと。西側の絵より迫力があります。

「東のアザナ」とよばれる、内側の城壁の東の端の高い場所からもきれいに見えます。こちらもこの絵があるのとないのとでは全然違いますね。存在感があります。モノレールからもみえるらしいです。
2つの絵の違いを堪能するのも、復元工事中の期間ならではです!

まとめ
たくさん、見学したり、話をきけたりして、大雨と強風の中、有意義な時間がもてました。以下にまとめてみました。
- 首里城の令和復元工事を関係者の案内で見学した
- 2019年の大火災のすさまじさ、消防士たちの大変さがわかった
- 焼け残った大龍柱が印象的だった。
- 大龍柱がどのように復元されるか注目
- 木材をはじめ材料の調達や職人さんの件などたいへんなことがたくさん
- 技術を次世代に残していくことも事業の中でやっていた
- 裏話もいろいろきけておもしろかった
また、沖縄を訪れたときは、見学にいきたいと思います。

